細胞

自分の身体のどこかが痛い時、人は自然にその場所に手を当てる。手を置くなり、さするなり、押すなりする。  自分の身体の深いどこかと対話するときである。

イメージトレーニングがある。巷でよく使われるのは、結果をイメージして、それに近づく方法である。しかし私が考えているのは、細胞単位でのイメージトレーニングだ。目に見えない細胞をイメージする。身体の色んなミクロな部分で、動く、広がる事をイメージする。結果じゃなくて、その細胞が動いている事、広がっている事、縮小されている事をイメージするプロセス的な考え方である。

痛い時に手を置いた様に、ピンスポットで身体のどこかにスポットを当てたり、それを意識する、その細胞をイメージで動かしてみる。そこから動いてみる。

少なくとも人間には60兆個以上細胞があり、毎日死んで行く細胞は15兆個、1秒間には5000万個もの細胞が生まれ変わっているそうです。目に見える動きだけではなく、そう言う身体の中でうごめいているものを意識するのも大切な事だと思うのです。

 

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Elena’s Aria

この作品は1984年に発表したローザスの作品です。アンヌテレサが24歳、私が22歳の時の作品です。椅子が50脚程舞台上にあり、ハイヒール、タイトドレス、トルストイ、ドストエフスキー、ブレヒトのテキスト、ウインドマシーン、男性のいない空間、誰かを待っている空間、失われてしまったものを自覚する空間、気まずさ、後ろ姿、最後の方まで5人で踊らない構成、叶えられない願望、叶えられない愛…失ったもの…

この作品をNew YorkのBAMが、撮影してくれたビデオのアーカイブをもとに、2011年の4月にブリュッセルで再演しました。その後こうして時々踊るチャンスがあり、今週再び、ブリュッセルのKAAITHEATERで再演中です。

アンヌテレサと再び踊れるこの作品は、28年前と今日を、もの凄い速さで行き来する、不思議な空間です。あの悪戯っ子の様な目で見つめられると、どうしても微笑んでしまう…挑発されると答えたくなる…変んことをやらかしていると呆れちゃうけど許したくなる…

時間やタイミングがもの凄くのんびり流れる作品でもあります。実は速く流れない様に数えてます。じゃないと20秒くらい速くしたくなる、30秒くらい速く次ぎに進みたくなる、5分くらいカットしたくなる。1分くらい何も起こらない、サイレント。それを観客に分からせる、何も起こらない、誰も動かない、でも観るものはある、何も動いていないけど生きている人間が舞台にいる。それでも観るものが沢山ある事を観客が意識する。観客をどんどん私達の世界に吸い込む。この作品は5%与えて95%、客を吸い込むところから始めて、最後は静かに声を出さずに100%嘔吐する声を出さないで泣く…そんなイメージです。

2014年の夏にNew Yorkに再びこの作品で行くまでに、チャンスのある方は是非観に来て下さい。パリ公演は今年の5/14日から19日までです。

 

 

 

隠れない

人の顔色ばかり気にして意見を言えるのが大人なのだろうか。それが本当に、作品や、仕事や、その人の為にも、自分為にもなっているのだろうか。思い切り相手に、良くないとか、嫌いだとか、間違っているとか言える、そうちゃんと言える環境を作りたい。

作品の振りやテキストや話やストラクチャーに振り回されたり、逃げる、隠れる、消える、委ねるのも危険。Don’t disappear your self into the choreography , Don’t disappear your self into the texts, into the story, into the structure ……

 

 

質問と答え

答えがある、答えを訴えている作品は個人的に好きではないです。それはテーマであったり、意志であったり、スタイルであったり、その舞台の確実さであったり、舞台人としてのスタンスであったり………答えがある場合は、それを受け入れるか受け入れないのどちらかだけど、同じ舞台の立ち方でも、答えではなく、質問、疑問しかない場合は、舞台に立っている本人も観ている客も、そこにいる数だけの答えがあり、またそれに続く疑問がある訳です。一色ではなく、何色もあり、ぐちゃぐちゃなわけです。私はそのぐちゃぐちゃが好きで、曖昧さが好きで、儚さが好きなのです。

断言した時点で崩れるし、確信した時点で嘘になる。

テーマは観た人が何かを感じたら、もしかしたら、それがテーマかも知れないし、表現者がこれがテーマです!と言うものではない。第1テーマすらない事が多い。それをこれがテーマですねと、反対に客や批評家に言われても本当に感心するというか驚くというか、どうしてテーマが必要なのか、学生の読書感想文じゃあるまいし…本当にどうでも良い事なのに、テーマが分かると何か得すると思っているのでしょうか。

結果や成果やテーマ達成や何かを完成させる為に舞台に立っているのではありません。答えはなく、質問しかなく、疑問しかなく、答えは無限にあり、ほんの手づかみの確信はすぐに捨て、忘れ、秘めるものは秘め、何かが育っていく、そしてそれも、壊れ歪み崩れ消える。それだけじゃないかしら…

何を信じるか…

信頼とか信用とか自信とか…信じると書く漢字のものは、私は嫌いです。信用も信頼も自信も1秒でその気にさせ、1秒でぐしゃぐしゃにぺっちゃんこにされてしまいます。どうせ、すぐに消えてなくなるものならば、始めから頼りにしない方が良い。その為に仕事をしたり、あくせくしない方が良い。

でも、出来るという何かがないと舞台に立てないでしょう?と言う質問が飛んで来そうだけど、もちろん、沢山練習をするし、もし何かあっても対応出来るように、心身共々準備します。何でも来いと言う準備をします。しかし、沢山練習したから成功すると云う訳でもないし、成功する事が目的でもないし、幸せになる事を人生の目的にしているのでも、幸せになったり成功する為に、何かを信じて邁進しているのでもないから、人の信頼云々を気にして、自分の自信のなさに嘆く必要がないだけです。

ここだ!これだと確信しても、疑問に思い、次に進む。確信した事は捨てる。忘れる。そんな風に舞台に立っているので、そんな風にしか人に接する事が出来ず、仲間を失い、愛すべき人を失うかもしれません。失っているでしょう。友達とかもいなくなるかもしれないです。でも、自分を信じる事を捨てた私は、無理に他の事、他の人を信じる事が出来ないだけです。

一瞬熱く信じて、それに頼らない。忘れる。忘れたい。その勇気が必要。

新しいもの

本当に新しいものはあるのだろうか。

自分のどこかに蓄積された記憶の断片が、形を変えたり、化学反応を起こしたり、摩擦を起こしたりしているだけじゃないだろうか。無意識の中に記憶されているものなのかもしれない。だって人間の80%の記憶は無意識で出来ているそうだ。

人は知らないうちに、自分の知っている音や、動きや、味や、においや、感触や、映像を追っている、探し出してはいないだろうか。それを見つけて安心したり不安になったり不愉快にあったりしていないだろうか。

無意識と習慣と記憶と経験…

ボリューム

A点からB点に移動する場合、日本人ダンサーはAというポジションから、Bというポジションにショートカットで動くようだ。まるでその間のボリューム感がない。写真Aから写真Bに移ったが如く平になってしまう。その間に色んな事が起こるべきである。例え時間的に1秒であってもだ。やはり結果重視でプロセスが重視されない事が、こう云う所にも出て来るのだろうか。輪郭からものを捉え、そのあと色塗りばかりしていると、本当のボリュームをどこかに忘れて来てしまう絵の様である。ダンスはぬりえではない。前から気になってはいたが、色んなテクニック情報が、今や日本には沢山入って来るにもかかわらず進歩はなく、今回のワークショップとオーディションで気になったので書いておく。

フォーカス

先週東京のアーキタンツで4日間ローザスのレパートリーワークショップを教えた。気になった事があるので書いておこう。各ダンサーの視線、フォーカスだ。視点が合っていない。死んだ魚の目の様な子が多かった。どこを見ているのだろう。何を見ているのだろう。鏡ばかり見ているバレエダンサーも辟易だが視線が定まらないダンサーも異様だ。

ある物/者を捉える。それをズームする。ある物/者を捉える。そこから前方90度に広げる。180度(ペリフェリック)に広げる。そして前を見ながらも後ろに集中を回す。

これらのフォーカスを使いながら踊る事は訓練出来る。すべては意識する事から始まるので、どの踊りもどの瞬間も意識なきフォーカスでは、身体にも危険である。まずどこを見ているかという意識が必要だと思う。例えそれが自分の身体を見つめているにしても、相手や空間を見つめているにしてもだ。

鋭い視線が大切と言っているのではない。

私は良く目配せをする。目で相手を見て合図するのだ。アイコンタクト、ミュージシャンは良く使うが、ダンサーも使うべきである。その反面、私は自分の細胞も見つめる。自分の細胞にアイコンタクトを送る。

見えないものも見て、見えるものも見る。

見て、見つめ返す。

目を綴じて行う練習がいくつかあるが、自分の聴力等、別の部分が如何に使われていないかに気付く。

私達は踊っている時に何を見ているのだろう。

私が見えたものはお客さんにも見えているのだろうか。

時と共に歪み、時と共に散り、時と共に流れ続ける…

いつの間にか日にちが変わり年が変わりました。

殺風景な喪中の我が家では、何かがほんの少し欠けているお正月らしくない雰囲気です。

それでもお正月の匂いが家の中を充満しています。

お正月の色や音が充満しています。

去年は沢山の事に変化があり、振り返ったりする間もなく、次に進むしかなかったです。

一瞬後の過去はどんどん私の後ろから消え、忘れさせられ、なくなって行きました。

その中から、何かは残り、形を変えて残り、記憶になったり、記録になったり、

経験になったり、想い出になったり…

残りはすべてゴミ箱か記憶の果てに散ってしまっています。

それでも時はいつも通りに過ぎて行き塵となっていきます。